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09山陰・山陽9(鞆の浦) [旅行]

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【5月5日 7日目】
福山市街のホテルを出て、朝の8時半くらいには、前回尾道に行った際に寄りたかったのだったが果たせなかった鞆(とも)に到着。
堤防の上で、ぼけーっと暫くの間、海を見ていた。
人もこの時間はあまりいなくて悪くない。

鞆は、古くから潮待ちの港として栄え、万葉集にもその地名が出てきたりし、江戸時代からの町並みや港湾施設がそのまま残っている町である。

江戸時代に朝鮮通信使のための迎賓館として使用された施設である福禅寺の対潮楼からの景色は、「日東第一形勝」(朝鮮より東で一番美しい景勝地という意味)とかあちらの使節の人に言われなくても、確かに悪くない。

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常夜燈などの江戸時代に造られた港湾施設。

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「いろは丸事件」の際に、暗殺を恐れた坂本龍馬が潜伏していた升屋清右衛門宅。

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江戸時代は保命酒の蔵元で、禁門の変の直前に三条実美ら七人の公家が京を追われ(七卿落ち)、長州藩に逃れる際に滞在していた「太田家住宅」(重要文化財)。

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隠し階段も。

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保命酒の醸造元である岡本亀太郎商店。この入り口は、福山城の三の丸御屋形(藩主居館)の正門が移築されたもの。

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安国寺の木造阿弥陀三尊立像。

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安国寺恵瓊(あんこくじ えけい)が住職としてこの寺を再興したことでも知られる。
恵瓊は、毛利元就によって滅ぼされた安芸武田家の一族として生まれ、その後、毛利氏の外交僧として活躍。
特に、本能寺の変時に、織田軍の羽柴秀吉と備中高松城で対陣(秀吉の水攻めとして有名)していたのを和睦を取りまとめ、秀吉が京都に軍を返し(中国大返し)明智光秀を山崎の戦いで破るのに繋がった。
恵瓊は、本能寺の変の10年近く前に、将来的に信長がコケることと、そのあとは秀吉が来るであろうことを予想していたりする。
その後、秀吉の時代には僧職のまま6万石の大名となり、関ヶ原の戦いの後に六条河原で斬首され、曝し首となるという数奇な生涯を送った人物である。

信長といえば、その信長に京から追われた足利義昭も、流れ流れてこの鞆の地で毛利輝元の庇護を受け(鞆幕府と言われるらしい)、小松寺で暮らしていた。

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この旅の初日に、高梁で「我に七難八苦を授け給え」の言葉で有名な山中鹿之助が殺された場所を訪れたが、最終日に、鞆にいた足利義昭や毛利輝元により首実検が行われ、その後地元の人たちが手厚く葬った首塚へ。
これもまた何かの縁である。

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首塚前の静観寺にて。
「山中鹿之助幸盛公略史」も無償で配布している。(犬の後ろ)

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という訳で、もう1回、鞆について書きます。


【関連記事】
09山陰・山陽1(高梁・吹屋)
09山陰・山陽2(吉田・津和野)
09山陰・山陽3(津和野2)
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09山陰・山陽8(石見銀山)
09山陰・山陽9(鞆の浦)
09山陰・山陽10(鞆の浦その2)
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